番外編
いつも腕のなかで
コハクと3歳のヒスイの話
「おにいたん!ひしゅいね、だっこだいしゅき〜!!」
小さなヒスイ。
人間でいう三歳児ぐらいの姿で、きゃっ!きゃっ!と無邪気に笑っている。
「そうかぁ。ヒスイはこれが好きなんだね」
コハクは慣れた手つきでヒスイを抱きかかえている。
何度か高い高いをしてヒスイを喜ばせたあともずっとヒスイを地に降ろすことなく腕の中に抱いていた。
かれこれ二時間はたつ・・・。
ヒスイの言葉に、コハクは顔じゅうを和やかにして笑い、頬を擦り寄せた。
ヒスイはくすぐったそうにそうに笑って言葉を続けた。
「おにいたん、だいしゅき〜!!」
ヒスイのもみじのような手がぴたぴたとコハクの顔に触れる。
コハクは穏やかに微笑んでいたが、それはヒスイの瞳に映るコハクの姿で、実際はかなり間の抜けたにやけ顔だった。
(やった!ヒスイが僕を好きだって言った!幸先いいぞ!これは!!)
「ね、ヒスイ、もう一回言ってくれる?」
「おにいたん、だいしゅき〜!」
ヒスイは疑いもせずコハクのリクエストに応えた。
(あぁ・・・可愛い・・・vv)
「だ・い・す・き。ちゃんと言えるかな?」
コハクは心の中では大興奮しながらも、ヒスイに正しい発音をさせようと何度も手本を見せた。
「だ〜い〜しゅ〜きっ?」
「だいすき、だよ」
ヒスイは一生懸命口を動かしたが、どうしても上手く発音できなかった。
(この舌足らずなカンジもかわいいよなぁ・・・。まぁ、いいか、当分はこのままでも)
コハクは腕のなかで懸命に口をぱくぱくさせているヒスイを見守った。
幼いヒスイの幼い言葉を心に刻み込んで。
季節は春。
裏庭には桜が咲き乱れている。
(桜も綺麗でいいんだけど、毛虫がなぁ・・・。毎年すごいんだよね・・・)
コハクはヒスイを抱いたまま、桜を見上げた。
二人の住む屋敷の裏手はそのまま森に続く広い庭になっていた。
裏口から出てすぐのところにはコハクが育てている植物がたくさんあったが、なぜかサボテンと食虫植物が多い。
それとは別に大きな花壇もあって、そこにはチューリップをはじめ、ガーベラやパンジー、マリーゴールドなどが植えられている。
広い庭にしてはとても手入れが行き届いていた。
「ほら、みて。ヒスイ。たんぽぽだよ」
コハクはしゃがみ込んで地面に根を張るたんぽぽを指さした。
「たんぽぽ〜!しゅきっ!」
ヒスイはコハクの腕の中ではしゃいだ。
「じゃあ、おにいちゃんとたんぽぽ、どっちが好き?」
「う〜ん・・・」
ヒスイは迷った。
(ええっ!?そこで迷うの!?)
コハクは思わず突っ込みそうになった。
「・・・おにいたん!」
(ほっ。よかった。たんぽぽに負けなくて・・・)
コハクはゆっくり腰を上げた。
「おにいたん!おにいたん!」
「うん?」
ヒスイが腕の中からコハクの顔を覗き込んだ。
「ひしゅいがおおきくなってもいっぱいだっこしてくれゆ?」
ヒスイはくりくりとした大きな瞳でコハクを見ている。
コハクは少し考えてから答えた。
「うん。ヒスイが僕のお嫁さんになったらね。大人になっても今みたいにだっこして、高い高いしてあげるよ」
「およめしゃん?」
ヒスイは瞳をぱちくりさせながらコハクを見つめた。
森の緑と同じ色をした瞳に、半分笑いを堪えたようなコハクの表情が映る・・・。
「・・・なる?僕のおよめさん」
「うん!なるぅ〜!!ひしゅい、おにいたんのおよめしゃんになるぅ〜!」
ヒスイはバンザイのポーズで答えた。
コハクはとけだしそうな笑顔で、ヒスイを抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。
「じゃあ、約束ね」
コハクはそう言って、小さなヒスイの右手の小指に自分の小指を絡めた。
「うん!ひしゅい、おにいたんのおよめしゃんになって、いっぱいだっこしてもらゆの!!」
ヒスイはコハクの首筋に両腕をまわして、きゅっと抱きついた。
「でも・・・およめしゃんってなんだろう・・・」
コハクのちょうど耳のあたりでひとりごとのように呟く。
「今度教えてあげる」
コハクはヒスイの背中にゆっくり手をまわしながら答えた。
この時、コハクがどんな表情をしていたのか、ヒスイは当然知る由もなかった。
「ねぇ、ねぇ、おにいたん」
それから何日か経った、ある昼下がりのことだった。
ヒスイがトテトテとキッチンに立つコハクのもとへやってきた。
両手に大きな絵本を抱えている。
「どうしたの?ヒスイ」
「これ。これ」
ヒスイはコハクの足元にぺったりと座り込んで絵本を開くと、あるページを指さしながらコハクを見上げて言った。
「うん?」
コハクは身を屈めて上から覗き込んだ。
そのページには王子と姫が誓いの口づけを交わす絵が描かれていた。
ページいっぱいに広がる幸せの構図・・・ヒスイは姫のほうを指さして言った。
「これ、およめしゃん?」
「そうだよ。よくわかったね」
コハクはヒスイの頭を撫でた。
「けっこんしゅると、およめしゃんになるの?」
「うん。まぁ、そうかな」
「じゃあ、ひしゅいとおにいたんはけっこんしゅるの?」
「ヒスイが良ければね」
「やくしょく、したもんね!」
ヒスイは短い小指をぴんと立ててずいっとコハクのほうに向けた。
そして、白い歯を見せていししと笑った。
その姿がなんとも愛らしく、コハクは自然に顔の筋肉が緩んだ。
「ヒスイ・・・そんなにだっこが好き?」
「しゅきっ!」
(かっ・・・・可愛すぎるっ!!その笑顔は反則だ・・・)
「おにいたん?」
「あ、はいっ!」
コハクは妄想に耽るあまりおかしな返事を返した。
「???」
ヒスイは首を傾げた。
「あ、うん。何でもないよ、何でも・・・」
「ねぇ。ねぇ。おにいたんとひしゅいはけっこんしゅるから、これ、しゅる?」
「え・・・?」
ヒスイはもう一度同じページを指さした。
「誓いの・・・キスを・・・?」
「?」
ヒスイにはその単語の意味がわからなかった。
絵本のなかの二人が幸せそうにしているのを見て、自分もしてみたいと単純に思っただけのことだった。
(・・・これって、すごいチャンス!?)
コハクはごくりと唾を飲んだ。
もちろんそれは内心の話で、表向きはいつもの優しい笑顔だった。
ただ少し照れたような顔でヒスイを見たが、ヒスイにはその微妙な表情の意味も当然理解できなかった。
「いいの?しても?」
「うん!」
コハクは少々ためらいがちにヒスイの肩に手をかけた。
手のひらで軽くすっぽり覆ってしまう程、小さく丸い肩に。
「じゃあ、しちゃおうかな・・・」
今にもよだれを垂らしそうな心の内とは裏腹に、コハクは美しく微笑みながら、ひとまわりもふたまわりも小さいヒスイの穢れなき唇に自分の唇を寄せた。
ヒスイは見よう見まねで瞳を閉じて、じっとコハクを待っている。
コハクの口元がにやりと歪んで、互いの唇と唇が今にも重なり合うという瞬間のことだった。
指輪が強い光を放った。
コハクの右手の中指にはめられたプラチナの指輪・・・。
その光に驚く間もなく、コハクの体はカチンコチンに固まり、完全に動きが止まってしまった。
(!?からだが・・・・うご・・・か・・・ない・・・!?)
コハクは全身の力を振り絞って束縛を解こうとしたが、ヒスイの唇を狙っているうちは解けない・・・そういう類の呪文がその指輪には込められていた。
(・・・メノウ様のバカ・・・)
コハクは大きく溜息をついた。
(ヒスイの唇が・・・目の前なのに・・・)
諦めきれない思いを抱きつつも渋々ヒスイから離れる。
「おにいたん?まだ?」
ヒスイは待ちくたびれて瞳を開けた。
困ったように笑うコハクがヒスイの頭に手を置いて、何度も何度も頭を撫でた。
「・・・ヒスイがこのぐらい大きくなったらしようね」
「うんっ!」
ヒスイは素直に納得した。
「いい子だね」
「おにいたん。だっこ〜!」
ヒスイが両腕を伸ばしてだっこをねだった。
コハクはひょいとヒスイを抱き上げ、今度はゆっくりと背中を撫でた。
すると、たちまちヒスイはうとうととなり、コハクの腕の中で寝息をたてはじめた。
ヒスイの愛らしい寝顔を見ながらコハクは心の中で叫んだ。
(次こそは・・・!!メノウさまの指輪なんかに負けるもんか!!)
そしてコハクの挑戦は続く・・・。
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