番外編
ラヴァーズ・レッスン
コハクと12歳のヒスイの話
キイッ。
静かにリビングの扉が開いた。
そこからコハクが顔を覗かせ、何やらキョロキョロと周囲を見回している。
「よし・・・誰もいない」
誰も・・・と言ってもヒスイとの二人暮らしだ。
コハクはヒスイの姿がリビングにないことを何度も確認してから、
両腕で抱えていた雑誌を一冊、テーブルの上に置いた。
「・・・ついにこの日がきた」
少々興奮気味の表情で鼻息を洩らす。
「ヒスイにもそろそろ男女の付き合いというものを知ってもらわないと!何か間違いがあってからじゃ遅いんだ!!」
ぐっ、と、にぎりこぶしを胸のあたりに持ってくる。
コハクが持ってきたのは『ラヴァーズ』というタイトルの大人向け雑誌だった。
一糸纏わぬ姿の男女が表紙で絡み合っている。
「これでヒスイが少しでもこういうことに興味を持ってくれればなぁ・・・僕のつけ入るスキもあるんだけど・・・」
自分でそう言いながら、なんちゃって、と、笑ってコハクは軽く頭を掻いた。
「お兄ちゃん?いないの??」
しばらくして今度はヒスイがリビングに顔を出した。
「どこ探してもいないなんて・・・変なの」
見つかるハズがない。
隠れているのだ。
「ん?何これ・・・」
コハクの思惑通り、ヒスイはテーブルの上の『ラヴァーズ』に目を留めた。
「何これ??何で裸なの??」
(ラヴァーズ?恋人達って意味よね?)
ヒスイは不審なものを見る目つきでその雑誌を手に取った。
パラパラとページをめくってみると、そこには見たこともない光景が広がっている。
「あ〜・・・・え〜・・・っとぉ・・・これって・・・」
ヒスイはじわじわと赤くなり、前髪を掻き上げた仕草のまま固まった。
大きな瞳をしばたかせて、見開きのページを見ている。
「何なのよ・・・コレ・・・」
ヒスイは耐えられなくなり、雑誌を閉じた。
そして真っ赤な顔から吹き出す汗を手の甲で拭った。
「し・・・信じられない・・・。恋人達って・・・こ・・・こういうこと・・・するの??」
もう何が何だか。
ヒスイは雑誌片手にフラフラと歩き、どっさりとソファーに身を投げた。
それから深呼吸を繰り返し、再び雑誌を開いた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・だめ・・・。こんなの絶対ムリ・・・」
「もうっ!何なのよ!これっ!!」
しまいには怒り出して、雑誌を床に投げ捨てた。
「何でこんなのがウチにあるのよ!!」
「あ・・・なんだかマズイ雰囲気に・・・」
コハクは一部始終をヒスイが通ったあとの扉の隙間から観察していた。
ヒスイが雑誌を手に取った時はしめしめという顔をしていたコハクも、ヒスイの怒り出す様子を見ると表情を曇らせた。
(ちょっと刺激が強すぎたかな・・・)
「変ね・・・。そういえば最近本棚にやたらと恋愛小説が増えたような気がするのよね・・・」
ヒスイは顎に触りながらムムムと唸った。
「前からあんなにあったっけ?う〜ん・・・」
本棚に恋愛小説を追加したのは勿論コハクで、ヒスイの行動パターンを知り尽くしているコハクは、ヒスイが好きな冒険活劇が並ぶ本棚に、一見恋愛小説とはわからないタイトルの本を実に巧妙に紛れ込ませていた。
そして読書好きのヒスイは、一度手にした本は内容がどうであれとりあえず読んでしまうのだった。
それがまさにコハクの狙いで、最近かなり“恋愛”に関しての知識が高まってきたところだった。
「・・・・・・」
ヒスイはちらりと足元に落ちている雑誌を見た。
「いくら抵抗があるからって本を投げ捨てちゃだめよね」
自分をたしなめながら『ラヴァーズ』を拾い上げる。
よく考えてみると、何故この雑誌がここにあるのか、答えは一つしかない。
「・・・まさかお兄ちゃん・・・」
(嘘・・・信じたくない!!お兄ちゃんが、こんなハレンチな・・・)
「・・・まずい」
あちゃ〜・・・とコハクは額に手をあてた。
「そりゃ喜んで見るとは思わなかったけど、もう少し・・・こう・・・部屋にこっそり持っていくとかして・・・興味を示してくれると思ったのに・・・」
よもや自分に返ってくるとは。
「とにかくこれ以上はまずい」
ごくりと唾を飲み込んで、コハクは扉を開けた。
「あ!お兄ちゃん!!」
ヒスイが詰め寄る。『ラヴァーズ』片手に。
「あの・・・これ・・・お兄ちゃん・・・の、なの?」
気まずい空気が流れる。
コハクは内心たらりと冷や汗をかきながらも潔く答えた。
「・・・うん」
「!!!」
ヒスイが瞳を大きく見開いた。
コハクが否定してくれることを願いつつの質問だったのだ。
(信じられない・・・。お兄ちゃん、女の人みたいに綺麗なのに・・・。こんなの見て喜んでるっていうの〜!!?)
ヒスイは2・3歩後ろに下がった。
「こ・・・こういうのに・・・興味、あるんだ・・・?」
ダメ押しのような質問にコハクは面食らったが、今度もまた素直に答えた。
「うん。まぁ、それなりに」
「!!お兄ちゃんなんてキライ!!フケツ!!サイテー!!」
ヒスイは逆上し、『ラヴァーズ』をコハクに押し返すと、そう喚き散らして部屋から飛び出した。
(キライ・・・フケツ・・・サイテー・・・)
ヒスイの捨てゼリフにコハクは口から魂が抜け出すほどの衝撃を受けた。
「ヒスイに・・・フケツって言われたぁ・・・」
コハクは涙声でそう洩らすと、深くうなだれた。
「作戦失敗だ・・・」
パラパラと『ラヴァーズ』をめくる。
「あんなに嫌がられちゃ、ヒスイとこういうことがしたいと思ってるなんて、口が裂けても言えないなぁ・・・」
コハクは両手をテーブルについて、はぁ〜っと長い息を吐いた。
(まさかあんなに怒るとは・・・さて、どう機嫌をとろうかな・・・)
(お兄ちゃん・・・ああいうの見るんだ・・・)
ヒスイはまだ立ち直れない。
自分の部屋に戻ってはきたものの、どうにも心が落ち着かなかった。
(綺麗で優しい自慢のお兄ちゃん・・・。なのに、なのに・・・)
「なんかショックだぁ〜・・・・」
ヒスイは突然しゃがみ込んだ。
(お兄ちゃんも・・・誰かとあんなふうにしたいと思ってるのかなぁ・・・)
「だとしたら・・・なんか嫌だな・・・」
ヒスイは想像力を逞しくして、逆に落ち込んでしまった。
「お兄ちゃんは・・・私のお兄ちゃんなのに・・・」
パチパチ・・・
裏庭から煙が立ち昇った。
コハクが例の雑誌を燃やしている。
第二弾・第三弾と用意してあったものも、ヒスイにバレる前にまとめて灰にしようとしていた。
腰をおろして炎の中を木の枝でつつく。
「お兄ちゃん?何してるの?」
後ろでヒスイの声がした。
コハクはビクリとしておそるおそる振り返ったが、それでもこれ以上事態を悪化させまいと努めて普通に振る舞った。
「今ね、焼き芋をつくって・・・あ・・・」
コハクの横をすり抜けてヒスイが炎の中を覗き込んだ。
「あ〜ぁ。これ、燃やしちゃうのぉ?お兄ちゃんのお気に入りなのに」
ヒスイが嫌味たっぷりに言った。
コハクは慌てて否定した。
「ちがうよ。僕は別に・・・」
「ふう〜ん・・・」
ヒスイは明らかに疑っている。
むすっとした顔のまま、炎の中に視線を泳がせる・・・。
「だけど、こういうこともちゃんと知っておかないと、ヒスイに好きな人ができた時に困ると思って・・・」
「え?」
ヒスイはその言葉に意外な反応をみせた。
「私に見せるため・・・だったの?」
「・・・うん。そう」
コハクは更に怒られることを覚悟して正直に話した。
自分が見ていると思われるよりマシだ。
「お兄ちゃんが見るためじゃなくて・・・?」
「うん」
「なぁんだぁ・・・」
「え・・・?怒らないの・・・?」
「怒る?なんで?私のためにしてくれたことでしょ?」
ヒスイは自分のなかのコハクのイメージが守られたことに安堵して、ほとんど無意識に微笑みを洩らした。
「でもね、知らなくたって困らないよ」
笑顔のままヒスイが続ける。
「だってずっとお兄ちゃんと一緒にいれば、そんなの関係ないもん」
「関係ない!?あ・・・うん、そ・・・そうだね」
下心でいっぱいのコハクは、嬉しいような悲しいようなヒスイの言葉に戸惑った。
「あ!もちろんお兄ちゃんが迷惑でなければの話だけどっ!」
その様子を見たヒスイは、コハクの都合を無視した発言だったと、焦ってそう付け加えた。
コハクが戸惑う理由が別のところにあることなど考えもしない。
「迷惑なんかじゃないよ。全然」
これはこれで悪くない。
コハクは気を取り直してキリッとした顔をした。
でれっとしたいところを無理矢理引き締めている。
「ホント?」
「うん」
「ずっと一緒?」
「・・・うん。ずっと一緒だよ」
ヒスイが甘えた声を出すので、思わず顔がほころんでしまう。
コハクは優しく微笑んでヒスイの頭を撫でた。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「だっこ」
ヒスイが真っ白な両腕をコハクに伸ばす。
「はい。はい」
コハクはひょいとヒスイを抱き上げた。
(くぅぅ〜っ!!!可愛いっ!!)
「お兄ちゃんのだっこ大好き〜」
と、嬉しそうにヒスイが笑って、両腕をきゅっとコハクの首筋にまわした。
(う・・・鼻血、出そう・・)
大興奮のコハク。
ははは、と爽やかに笑う裏でそんなことを考えている。
いつも。
大人の雑誌が一辺残らず灰になり、美味しそうな焼き芋が出来上がっても、ヒスイはコハクから離れなかったし、コハクはヒスイを離さなかった。
それは、冬のある晴れた昼下がりのお話。
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