コハク・ジスト・サルファー・メノウ・ヒスイ
きらきらの世界で
文:久遠 千世様
第1話 2人の息子
昇りたての陽光が、透明な輝きで世界を照らしていく。空は夜の闇色から昼の紺碧へと色をかえ、大地を渡るやわらかな風は可愛らしい小鳥のさえずりを運ぶ。
初夏の爽やかな大気は、全ての生命に朝の訪れを告げていた。
「じゃあ、お兄ちゃん、サルファー、行ってくるね? ジストのことよろしく」
玄関にて、見送ってくれる二人に笑みを浮かべながらそう言ったのはヒスイ。年月を重ねても一切のくすみを見せない美しい銀色の髪が、開け放たれた扉から舞い込む風にさらりとすくわれる。
「本当に送っていかなくて平気?」
そんなヒスイを、言葉の通りに菫色の瞳を少し不安げに陰らせ見つめるのは、もちろんコハク。同じく風にすくわれる金色の髪の毛を見上げ、ヒスイは大きくうなずいた。
「大丈夫。だって一人じゃないのよ? スピネルだっているし、途中まで迎えにきてくれるし」
ぽんぽん、とお腹を撫でる。スピネル、未だヒスイのお腹の中から出てこようとしない二人の子供だ。ちなみに、サルファーとジストとスピネルは三つ子の兄弟。
「んー……そうだね。なら安心かな」
「うんっ!」
やっと笑顔をこぼし頭を撫でてくれるコハクに、ヒスイは満足気に再びうなずいた。
そんなヒスイの宝珠のような緑色の瞳が、決して自分を見ようとせずただコハクにべったりひっついているサルファーをとらえる。最愛のコハクと同じ輝くばかりの金髪に、自分から受け継いだであろう緑色の瞳を持つ息子。
きっとヒスイに見られていることには気づいているのだろうが、意地でも視線を合わせようとしない態度に、当然かちんとくるわけで。
「サルファー」
呼びかけても無反応。
「サルファーってばっ! いってらっしゃいくらい言ってよねっ!」
頬を怒りでかすかに上気させながら大声を張り上げるヒスイに対し、サルファーはさも欝陶しげに鼻を鳴らすとそんなヒスイを一蹴する。
「そんなこと言ってる暇があるんならさっさと行けば? 足短いんだし。着く頃には日が暮れるぞ」
更に顔を背ける動きにあわせ、右耳につけた銀十字のピアスが揺れた。
「なっ! それが母親に対して言う台詞っ!? それにっ! 足が短いんじゃなくて、背が低いだけよっ!」
「バカなやつだな。チビな上に短いって言ってるんだよ」
ああ言えばこう言う状態。もうヒスイは先程より真っ赤に顔を染めながら、口をぱくぱくさせるばかり。
二人のそんな様子を見て苦笑いを浮かべているコハクをきっと睨みつけ、ヒスイはその勢いのままに詰め寄った。
「もーっ! お兄ちゃんっ! 笑ってないで何とか言ってよっ!」
「僕が言ってもきかないんだよ」
「それでもっ! サルファーはお兄ちゃんの言うことしか聞かないんだからっ!」
「はいはい、そんなに怒らないの」
背伸びをして自分の主張を繰り広げていたヒスイの額に優しくキスを落とし、その体を抱きよせる。
「せっかくの可愛いヒスイが台無しだよ」
きゅっと抱きしめられれば、あれだけいらいらしていた感情がゆっくりとほどけていく。いつも自分を一番優しく包み込んでくれるコハクを間近に感じ、ヒスイはその気持ちがだんだんと鎮まっていくのが分かった。
「うん……」
「はい、いい子だね。じゃあ行っておいで? 帰りは迎えに行くから」
その言葉に、ヒスイは腕の中からひょこっと顔をあげる。
「迎えに来てくれるの?」
「当たり前でしょ?」
コハクの即答に、ヒスイは光を生むかのようなとびきりの笑みを広げる。そしていつものようにキスのおねだり。
二人が離れるときの、恒例行事。
だが。
「父さん、今日は本を読んでくれる約束でしょ?」
寸前のところ、絶妙なタイミングでコハクの腕をひっぱり、ヒスイから引き剥がした。そしてそのままリビングへと引きずっていく。
ここでやっとヒスイを見たサルファーは、勝ち誇った笑みを不敵に光らせた。
不覚にも唖然としてしまっていたヒスイ。そんなサルファーの可愛げのない笑みに我に返ると、またしても怒り心頭。眉を吊り上げ思いっきりそっぽを向くと。
「いってきますっ!!」
吐き捨てるように叫びながら、外へと飛び出していく。
「い、いってらっしゃーい」
コハクの言葉は、乱暴に閉められた扉の音に虚しくかき消された。
「んー……」
南側いっぱいに広がる窓から差し込む朝日は、いくら木々の緑を透していても、レースのカーテンに受けとめられていても、今まで深い眠りの中にあった者にはそりゃあまばゆいばかり。まだまだまどろんでいたいベッドの主は、そんな光の洪水から逃れようと、ふかふかの枕に顔を埋める。
再び安息の夜色におおわれた視界に安堵したのも束の間、今度はけたたましいまでに鳴り響く目覚まし時計がその眠りをけやぶった。
朝の爽やかさもだいなしである。
だが、ベッドの主はしぶとい。別の枕をかぶり、何とかその音がやむまでやりすごそうとするが、いつまでたっても一向にやむ気配を見せないそれに、だがしかし動こうとはせずに事態の収拾をはかろうとする。
いわゆる、他力本願。
「うー……サルファー……止めてよぉー……」
と、ここで、まるで嫌がらせをするようにベルの音がけたたましさを増す。
「サ、ル、ファーっ!」
もう一度名前を呼べど、無反応。
「も、うるさーーーいっ!!」
ついにしびれをきらし、今まで眠っていたのが嘘のように瞬時に飛び起きると、ふりあげた手の勢いのまま目覚まし時計を叩いた。
ぴたっとやむベルの音。その余韻が消えると耳に心地よく響いてくるのは、小鳥のさえずりと木立をいく風の音。
しばらーく微動だにせずぼーっとしていると、やっと目覚めの段階に入ったのか、大きなあくびをしながらのびをする。
起きたのはアメジスト、八歳。通称ジスト。
朝日にきらりと光る銀色の髪にはこれでもかと寝癖がつき、深く澄んだ菫色の大きな瞳はにじんだ涙に潤んでいた。
そんな目をこしこしこすり隣のベッドを見ると、いるはずの姿がないことにやっと気づく。
「……サルファー?」
部屋内を見渡すが、姿なし。
「もう起きてるのかなぁ……早起きだなぁ、サルファーは」
布団をはらい、まずはベッドを降りる。テーブルの上にはきちんと用意された今日の服。もちろん、父であるコハクが用意したものだ。
何のためらいもなくそれに手をのばし、パジャマを脱ぎ捨てる。起きたとはいえ、未だぽやぽやしているジストの着替えはすぐには終わらず、きちんとボタンを掛け終えるまでかなりの時間を要した。
ここまで時間が経ってしまうと空腹は頂点に達し、そのおかげで目も完全に覚め、頭はすっきり冴え渡る。今日は果たしてどんな朝食か、期待に胸を膨らませジストは軽い足取りで階下へと降りていった。
「おっはよーっ! ヒスイ父ちゃんサルファースピネルーっ!!」
これでもかと人懐こい笑顔をふりまきリビングへと続く扉を開け放つジストを迎えるのは、同じような暖かい笑顔や優しい声である、はずなのだが。
今、そこにあるのは動き一つない静寂だった。
「あ、あれ?」
部屋を出る時、ちらっと見た時計で自分が寝坊してしまったのは分かっていた。だからこそサルファーは、それ以上寝坊しないように目覚まし時計をセットしておいてくれたんだと思う。
たぶん朝食は済んでいると思われる時間。でも皆は、毎日のように寝坊をやらかすジストが起きてくるのを、このリビングで必ず待っていてくれるのだが。
まず視線を走らせるのは、季節柄、今は使っていない暖炉の前に置いてあるパウダービーズのクッション。母であるヒスイのお気に入り。息子と同じようにコハクが選んだ服を着て、だいたい本を読んでいることが多いのだが、座ったあとは確かにあれど姿がない。ヒスイがいなければ、スピネルも同様。
「……ヒスイ? スピネル?」
次に見るのはキッチン。そこにはきちんとエプロンを身につけ、楽しそうに鼻歌を歌いながら後片付けや、午後のおやつの準備をしている父・コハクの姿があるはずなのだが、もうすでに片付け終わった食器達が、きらりと水滴を光らせていた。
「父ちゃん……?」
コハクの姿がないとなると、そのコハクにいつもべったりしているサルファーの姿も当然なく、いつも愛用しているスケッチブックと色鉛筆がそのテーブルの上、静かにたたずんでいた。
「サルファー……皆、どこ行ったのーっ!?」
まさにお手上げ。
降参するように両手を突き上げると同時に、左耳につけた金十字のピアスが七色に反射しながら揺れた。
「うぅー……」
四人がこのリビングにいないのは事実であるのだから、空腹に集中力が途切れそうながらも必死で考えをめぐらせる。
今日、どっかでかける予定だったっけ。それとも誰か来たのかな。昨日、父ちゃん何か言ってたっけ。
腕を組み、うんうんうなってはみるもののやはり何も頭には浮かんでこない。そうなれば、やることはただ一つ。
ジストはきびすを返すとまた再び二階へと駆け上がって行った。
自分とサルファーの部屋を通り越し、飛び込んだのは両親の部屋。そしてそのまま全力でかけより、開け放ったのはヒスイのクローゼット。
そこにはコハクが厳選した洋服が、カジュアルなものから煌びやかなドレスまでがきちんと整頓され、ずらーっと並べられている。それらを素早く確認し、鞄やアクセサリーの類まで目を通し終えたところでジストの動きがやっとぴたっと止まる。
「ない」
悲壮な顔をし、ついにはその場にぺたんと座り込んでしまう。
「お出かけ用の洋服が一コなーーーいっ!」
自他共に認める“超”マザコンなジスト。至極当然のようにヒスイの洋服は全て頭の中に入っている。鞄やアクセサリーはもちろんのこと、靴や、果ては下着まで全て把握済みである。
「ヒスイがいないーっ! どこ行っちゃったのーっ! 父ちゃんとサルファーもどこーっ!」
と、ここで何やら下、外から楽しげな笑い声がかすかにジストの耳に届けられる。それをすかさず察知し、素早く窓際に駆け寄りカーテンを開け、ガラスに鼻がつぶれる程に顔をひっつけると、何かがきらりと光ったのが見えた。
「いたっ!!」
もう寒さはない初夏の候、だが決して暑くもないぽかぽか陽気に誘われて、コハクとサルファーは家のすぐ前にある一本の立派な巨木の根元に仲良く座っていた。その脇には、書斎から持ち出した何冊かの本が積み重なっている。約束通り、どうやらコハクがサルファーに本を読んであげている最中のようだ。
そんなコハクに、サルファーは先程ヒスイに向けていた表情とはうってかわってのご機嫌顔。口元には年相応な笑みが浮かんでいる。
誰よりも尊敬し、大好きな父親を独り占めしていることが、何よりもサルファーの充実感にも似た満足度を高めているようだ。
もちろん、腕にぴたっと張りつきにこにこしているサルファーを見れば、コハクとて嬉しいことこの上ない。可愛い息子が聞き逃すことのないよう、一語一語丁寧に物語を読み上げていた。
「ねぇ、父さん」
物語が一つ終わったところで、サルファーが見上げながら声をかける。
「ん?」
「あの、ね? 色鉛筆、全部短くなっちゃったんだ……」
「えっ!? もうっ!?」
「う、うん……」
驚きで素っ頓狂な声をあげたコハクに、サルファーは少し申し訳なさげに瞳をふせる。だが、コハクのそんな驚きはもっともなところで、ついこの間、新しい色鉛筆一式を買ってあげたばかりなのだ。
絵を描くのが大好きなサルファー。子供が興味を持ち、熱心に取り組めるものなら、それ相応のものを与えてやりたいというのがコハクとヒスイの考え。そのためのものであれば、惜しみなく与えるのは当たり前のこと。
コハクは未だちょっと肩を落としてうつむいているサルファーの、自分と全く同じ感触を持つ髪の毛を優しく撫でた。
「じゃあ、後で一緒に買いにいこうか」
がばっと瞬時にサルファーの顔があがる。
「ホントっ!?」
「もちろん。ジストが起きたら一緒に行こう」
「ありがとうっ!」
「父ちゃんっ!!」
物凄い勢いで玄関の扉が開けられ、叫びながら出てきたのはジスト。
「ジストおはよー」
にっこりと天使の微笑みにて手をふりながら、もう一人の息子に軽やかな挨拶をする。
「ジスト寝すぎー」
そんなサルファーのからかいにも今は反論することができず、今にも泣きそうな顔を二人に向けてきた。
思わず首をかしげる金髪親子。
「と、う、ちゃーんっ!!」
まさに猪突猛進。
ジストが一心不乱にコハクに飛び込んでいくものだから。
「えっ!? ちょ、ちょっとジスト、待っ……っ!」
その衝撃ははかりしれず。
ばきっ!
「何の音?」
サルファーがのんきに言った。
「ねぇ父ちゃんっ! ヒスイがいないヒスイがいないっ! ヒスイどこ行ったのーっ!?」
いつもならすぐにでもきちんと答えをくれるコハクなのだが、一向に言葉は発せられず、ぐりぐりとその胸元に顔をこすりつけていたジストも、さすがに「あれ?」と我に返る。
「父ちゃん……?」
そこにあったのは、あまりの衝撃に目を回しながら気絶した父親の姿。ジスト、一気に青ざめる。
「うわーっ! 父ちゃんごめーんっ!」
そのジストの叫びに、枝にとまっていた小鳥が一斉に大空へと飛び立った。
第2話 親子の光景
手が白くなる程強く握りしめ、テーブルに叩きつけるように置くものだから、わずかに残った中身が跳ね、真っ白なクロスにまだら模様をつけた。ついでにぴきっとひびが入る。
叩きつけたのはグラス、握っているのはヒスイだ。
「ヒスイ……」
向かい合わせに座り、もうみるからに機嫌の悪いその様子に呆れているのは。
「そんないらいらするなよ」
「だってお父さんっ! むかつくんだもんっ!」
ヒスイの前に座っているのは父親のメノウ。
「いまに始まったことじゃないだろう? サルファーのお前に対する態度は」
瓜二つの顔をしたいらいらモード全開の娘を見ると、自分も同じ状況になったらこんなふうになるのかと、出るのはため息ばかり。
「でもむかつくのーっ! 挨拶しないどころか私とは目も合わせないし、視界の端にだって置こうとしないしっ!」
また始まった、とばかりに、メノウは呆れながらも黙って娘の口上を受け入れる。手元にあるティーカップからあがる果実系の甘い香りが、そんなメノウの気持ちを幾分癒してくれるようだった。
「いっつもお兄ちゃんにべったりだし、私がお兄ちゃんと話してると必ず邪魔しにくるし、今日だって邪魔されてキスもできなかったんだよっ!?」
「お前達はしすぎなんだから、少しぐらい邪魔されてちょうどいいんだよ」
小声で言ったそんな一言は、興奮したヒスイには決して届くことはなかった。
「お兄ちゃんが絵を誉めるもんだから調子にのるしっ!」
「それは言いがかりだろ」
あのくらいの年齢の子供だったら、親に誉められれば誰だって嬉しいものである。
「それとねっ!? この間髪とか瞳の色の話題になった時にねっ!? サルファー何て言ったと思うっ!?」
だんっ! とヒスイの白くて華奢な手が荒々しくテーブルを叩いた。その衝撃で、まだ口のつけられていないヒスイのミルクティーが激しく波打ち、砂糖の入った器がほんの少しだけ浮き上がる。そんな事態を予測していたのであろうメノウは、自分のティーカップを持ち、難なくそれをかわしていた。涼しい顔をし、喉を潤す。
ヒスイが目を吊り上げて主張するそれは、つい先日のできごと。
──サルファーは綺麗にヒスイの色を受け継いだね──
と、コハクが微笑みながら言った“声”はにこにこしながら受け取ったのだが、その意味するところはすっぱりきっぱり切り捨てた。
──僕の色はおじいちゃんから受け継いだもので、こいつからじゃない──
それを聞いたとたん、メノウの爽快な笑い声が響いた。
「何だそれっ! サルファー最高っ!」
「笑い事じゃないよっ! お父さんっ!」
だがしかし、メノウの笑い声はなかなか止まらず、しまいには腹を抱えて涙がにじむはめとなっていた。
「お父さぁぁぁんっ!」
「ごめんごめん。で? それで終わり?」
笑いすぎで痛む腹に手を当てながら再び問いかけると、ヒスイは首を横に振り、一番言いたかったことをやっと言えるとばかりに、更に声を張り上げた。
「そんなことがあっても、お兄ちゃんはにこにこしてるし、楽しそうに話しするし、そりゃ、注意はしてくれるけど怒らないし……とにかくっ! お兄ちゃんはサルファーに甘すぎなのっ!!」
口をついて出てくる事柄は全てコハクがらみ。もう何というか、ただの嫉妬にしか聞こえない。
一気に言い切ったヒスイの息はとことんあがり、肩が上下するはめとなっている。そんなヒスイに無言で新しいグラスを差出し、メノウは取りあえず落ち着くのを待ってから口を開いた。
「あのな、ヒスイ。コハクはサルファーにだけ甘いわけじゃないだろ?」
サルファーに対する嫉妬、ということは言わずに話しを進める。
「そっ、それは……そうだけど……」
「俺が見る限り、コハクはお前に一番甘いよ」
図星をつかれた一言。嬉しいんだか悔しいんだか。怒るべきか、喜ぶべきか。
ヒスイはぐっと喉をつまらせた。
「あいつは筋金入りの子煩悩だ。それはお前が一番よく知ってるはずだけど?」
有り余る愛情をコハクから与えれ、育ってきたヒスイなら。
「それに、俺からしてみればお前のその台詞。はっきり言って“棚上げ”」
「……え?」
棚上げ?
思わぬメノウの言葉に、ヒスイは長いまつ毛に縁取られた大きな瞳をしばたいた。
「お前だって子供に甘いだろ」
「わ、私はそんな……」
「トパーズ」
その名にぎくりとする。
「甘くないなんて言ったら罰があたるな」
またしてもヒスイは見事にメノウに沈黙させられる。トパーズのことを出されたら、もう何も言えやしない。
「サルファーだってお前とコハクの息子なんだから。可愛げのないところなんか、トパーズとそっくりじゃん」
確かに“可愛げがない”のはそっくりだ。
「それなのに、トパーズは可愛くてサルファーは可愛くない、おかしいよ」
はっきりとした否定の言葉。それが父親からもたらされたものだからこそ、ヒスイは瞳を伏せ唇をかみながら深くうつむかざるをえなかった。
サルファーだって自分の息子。なんらかわることのない事実。
コハク譲りの、うっとりとする程の黄金色の髪の毛に、整いすぎた容姿。黙っていれば本当に絵本の中にいる王子様のようだ。それはヒスイも認める、が。
口を開けば憎まれ口。向ける表情は人を小馬鹿にしたようなものばかり。笑みは全て勝ち誇った癪にさわる不敵なもの。
ふつふつと心の奥底から何かがわきあがってくるのをヒスイは感じた。
「ヒスイ?」
黙りこくる娘を前に、ちょっと言いすぎたかなと思い声をかける。
「……だめ」
「え?」
「だめっ! やっぱりむかつくーっ!」
やっと顔をあげたヒスイの第一声。メノウはもうお手上げ。だめだこりゃ、と視線をそらした。
「ママ」
ふと聞こえた声に、ヒスイとメノウは同時に翡翠色の瞳を動かす。
「いい加減愚痴るのやめようよ。せっかくおじいちゃんと一緒なんだから」
少しだけ余韻を残す感じに発せられる声は、姿なく届けられる。
「そうだな」
いち早くそれに反応してメノウが立ち上がる。
「スピネルの言う通り、俺は説教するためにお前に会ってるんじゃない」
「お父さん?」
差し出される手を見つめてから、自分そっくりな顔を見上げる。
「ほら、ママも立って。めったにおじいちゃんと二人きりなんてないんだから、楽しまなきゃ損だよ」
未だお腹の中に居続けるもう一人の息子・スピネルに諭され、ヒスイは確かにその通りだとうなずき、立ち上がるとメノウの手を取った。
「せっかくのデートだもんね。うん、ありがとう、スピネル」
ぽんとお腹を撫で、ヒスイはいつもの笑顔で微笑んだ。
「どこ行く? お父さん」
「ヒスイの行きたい所でいいよ」
「んー……スピネルは?」
ぱっと場所が浮かばず、息子に助け船を頼むが無反応。スピネルは“超”がつく程マイペース。気が向かなければしゃべりもしないし、応えもしない。
「もー。スピネルはいつだってそうなんだから」
「いいじゃん。決まるまでその辺ぶらぶらすれば」
「うん、それもそうだねっ! じゃあ早くいこっ! お土産、何買っていこうかなぁ」
とびきりの笑顔に、メノウの口元もゆるむ。ヒスイはなんといっても可愛い娘。今は亡き妻・サンゴから譲り受けた銀色の髪が、その弾む足取りに揺れる様はきらきらとまぶしいばかり。楽しげなヒスイの様子も加われば、もうメノウだって大満足。
「……ま、ヒスイとサルファーのことはコハクが何とかするだろ」
自分はあくまで傍観者と決め込み、メノウはくすくす笑った。
「そういえば、ジストは元気?」
ぽろっと言ってしまったその一言に、メノウは後悔するはめになる。
「そうっ! 聞いてよお父さんっ! ジストは何度言っても私のこと呼び捨てなのっ! お兄ちゃんのことはちゃんと“父ちゃん”って呼んでるくせに、なんで私のことは“ヒスイ”なのよーっ!」
「……もう今日はとことんつきあうか」
娘の愚痴に。
気合いをいれるメノウだった。
「ヒスイならメノウ様と出かけたよ」
「じいちゃんと?」
意識を取り戻し、ズキズキ痛む胸元をさすりながら、でも心配させまいと平然を装いジストにそう告げる。にこやかなコハクを、きゅるんとした菫色の瞳にて見上げながらジストがおうむ返し。
そういえば昨日、ちらっとそんなことを言っていたような……。
「それよりジスト。お腹すいてない?」
「……ぺこぺこーっ!」
「はい、じゃあどうぞ」
そう言いながらコハクが差し出したのは大きなバスケット。ずっしりと重いそれを条件反射で受け取り、手前に置いて止め具に手をかける。何だか宝箱のように思えるそれをわくわくしながら開けると、中身は今のジストにはまさに宝の山だった。
「うっわっ! おいしそーっ!」
まず目につくのは、きつね色にふっくらと焼き上げられたパン。それにはさまっている、見るからに瑞々しい野菜は、緑、赤、黄と、存分に目を楽しませ、カリッとこんがり焼かれたベーコンや、やわらかそうなチキンは何とも食欲を誘う。
バスケットいっぱいに入っていたのは、コハク特製のサンドウィッチ。
「食べていいのっ? これ、オレのっ?」
「もちろん。よく噛んで食べるんだよ?」
「うんっ! いただきまーすっ!」
具だくさんのサンドウィッチを両手で持ち、ジストは一気にかぶりついた。
「おいしいっ! やっぱり……父ちゃんの、作るのが……一番うまいねっ!」
食べながら話すものだから、とぎれとぎれになってしまうジストの言葉。喉に詰まらせないかと心配し、話すのは食べ終わってからと注意はすれど、全身で語ってくれるジストにそりゃあコハクの表情はゆるみっぱなし。一緒に持ってきておいたちょっと甘めのアイスティーをグラスに注ぎながら、可愛い息子の様子を眺めていた。
もう一人の息子は、兄弟がものすごーくおいしそうに食べている様子に釘づけになる。もとよりコハクの作るもの全てが絶品ということは知っているから余計に、だ。
「……ねぇ、僕にもちょーだい」
そんなサルファーの一言に、ジストは電光石火のごとくバスケットにおおいかぶさる。
「だめっ! これは父ちゃんがオレのために作ってくれたものだから、全部オレんだいっ!」
「いっぱいあるんだから、一コくらいくれたっていいじゃんかっ!」
コハクをはさんで左右に座る二人。納得がいかないサルファーは、コハクの足に乗り掛かるようにして手をのばす。
「サルファーはもう朝ご飯食べたんだろっ? オレはまだなのっ!」
「でもサンドウィッチは食べてないし、量だってその半分くらいだもんっ!」
「そんなの理由になんないもんっ!」
「何だよっ! ジストのケチっ! バカっ!」
ぱんっ!
突如鳴り響いた甲高い音に、ジストとサルファーがぴたりと止まる。そしてそろーりと恐る恐る見上げると。
そこにあったのは、コハクの笑顔。鳴った音は手を打ち鳴らしたもの。
「ケンカしない。ご飯は仲良く」
「だ、だって父ちゃん、サルファーが……」
「いっぱいあるでしょ? 一つサルファーにあげて」
「えぇーっ!?」
不満大爆発。どうしても納得いかないジストは、唇を尖らせ中々バスケットを差し出そうとしない。その様子に笑顔のままため息をつくと、コハクはジストの耳元に顔をよせる。
「それ全部食べたら、お昼ご飯食べられなくなるよ」
こそっと耳打ちされた言葉に、ジストはぱっと顔をあげた。
バスケットいっぱいのサンドウィッチを一人でたべれば、お腹いっぱいになる。寝坊した自分は朝ご飯と昼ご飯の間隔が短い。昼ご飯も当然コハクの作るおいしいご飯。
それを食べ逃すかもしれない。一大事だ。
「……はいっ!」
先程とはうってかわって、ジストはバスケットをサルファーに差し出す。
「一コあげるっ!」
「ホントっ!? やったっ!」
早速サンドウィッチを一つ取り、にこにこしながら口へと運ぼうとするサルファーの手を、大きなコハクの手が掴んだ。
「父さん?」
「食べる前に、ジストに言うことあるでしょ?」
「……あっ! ジストありがとっ!」
「あと」
腕を掴んでいた手が、今度はサルファーの頭にぽんっと乗せられる。
「頭ごなしに“バカ”なんて言っちゃいけない。分かるよね?」
「う、うん……ごめんなさい。ジスト、ごめんね……?」
「んーん、オレも欲張っちゃったし、ごめんね?」
えへへ、と二人して笑い、そして同時にかぶりつく。仲のいいところを見せる二人に、コハクは笑みを深くした。
最終話 きらきらの世界で
すっきりと晴れ渡った紺碧色の空に模様をつけるのは、ゆーっくりと移動する純白の雲。
「あれ、魚に見えない?」
「あっちは熊ー」
「じゃあ、あれは?」
「んー……シュークリームっ!」
「え? じゃがいもでしょ」
「絶対シュークリームっ! だってそっちのがおいしいしっ」
「ジストは食いしん坊だよねぇ」
サルファーがくすくす笑いながら言う。
「じゃがいもって言うサルファーよりましー」
ジストがすかさずそう返した。
若草におおわれた大地の上に寝転がり、二人は様々な形を見せる雲を指差したり、届かないと知りながらも手を目一杯のばしたりし、その形を色々なものに見立て楽しんでいた。そんな二人の横には、からになったバスケット。満腹になり、寝転んだといった具合だろう。
「でもサルファー」
「ん?」
「何で今日の朝、起こしてくれなかったんだよぉ」
ヒスイの見送りができなかったことが、余程悔やまれてならないようだ。少々むすっとしながら、菫色の視線を翡翠色の瞳に流した。
「起こしたよ。そしたらジスト、こう言ったんじゃないか」
──昨日もヒスイと父ちゃんすごくてさぁぁぁ……目がはなせなくて……ついつい最後まで……だから寝かせてぇぇぇ……──
「えっ!? オレそんなこと言ったのっ!?」
思わずぎょっと目を剥くジスト。
「言ったよ。だからお望み通りに寝かせてやったのに」
その時の様子を思い出すだけで呆れてしまうサルファーから、子供とは思えない程の深いため息が漏れた。
「お願いっ! 父ちゃんには言わないでっ!」
瞬時に横を向き、手をあわせながら懇願するジストだったが、サルファーはあっさりとどめをさす。
「父さんが気づいてないはずないだろ? ジストが寝坊する以前に、もう覗き見してる時点でばれてるよ」
「そ、そうなのっ!? なら今度からもっとうまく……」
決して覗き見をやめる気はないようだ。
「無理無理。どんなにうまく隠れたって、父さんは見抜くよ」
ちょっと自慢げにサルファーの声は響く。
「だよねぇ。父ちゃんってすごいもんなぁ」
再び大の字に寝転びながら、でも微笑みながら父・コハクの姿を思い浮べる。
「もちろんっ。父さんはいっちばんすごいっ!」
それ以外の意見などありえないと、サルファーは高らかと宣言した。
「おまたせー」
ここで、二人の話題の主が戻ってきた。手には新たにいれたアイスティーの水筒が握られている。
南から降り注ぐ陽の光を一身に集めるように、いや、陽の光が自らコハクに吸いよせられていると言った方が正しいだろうか。
そんな姿を見て、二人は何かを思いつき目を見合わせると同時に言った。
「父さんっ!」「父ちゃんっ!」
「「あれやってっ!」」
「あれ? ……ああ、あれね」
「「うんっ!」」
今か今かと待つ四つの瞳に促され、コハクは水筒を足元に置くと片手を上げながら言った。
「じゃあ、一回だけだよー」
光がその背に集まってくるのが見えた刹那、閃きながらそれは現われた。
なめらかなラインを描き、見た目はかなげな印象を持つそれはしかし、何よりも強く鮮烈な印象を与えるものだった。
黄金の粒状の光をお供に、力強く現われ出でたのは一対の翼。その片翼が二人の息子の空への視界を遮るように水平にのばされる。
舞い散る羽毛はそれ自体が光となり、重力の影響を受けずにふわりと辺りに乱舞する。ひらりと翻りながら風にのる羽根の一本一本は、そんな輝きに誘われまた舞った。
陰ることのない陽光を存分に浴び、きらきら輝く夢のような光景に、二人の瞳もまた輝いた。
「父ちゃん、すげー……」
うっとりと見惚れながらジストがつぶやく。
「かっこいいー……」
真上に降りてきた金色の羽根を受け取りながら、サルファーも続く。
「僕も父さんみたいな羽が欲しいっ!」
「オレもっ! ヒスイもおんなじ金色の羽だしっ!」
一通り翼をはばたかせ羽根を羽毛と共に散らすと、それをしまいながら起き上がった息子に視線を合わせようとしゃがみ込んだ。
「そうだね、二人にもそのうち現われるよ。今はまだちっちゃいから、もっと大きくなってからねぇ」
金色の髪と銀色の髪を撫でてから、コハクは一番最初にいた木の根元に座ると、三人分のアイスティーの準備をはじめる。その両脇に、ぴたっとはりつく二人の息子。
お揃いのグラスを受け取ったジストの目に、飛び込んできたのは積み重なった本。
「本読んでたの?」
「今日は天気がよくて風も爽やかだしね」
サルファーにグラスを手渡しながら、コハクがきちんと答える。
「じゃあオレもっ! オレにも読んでっ!」
「いいよ? そっちの本はまだサルファーにも読んでないから、好きなの選んでね」
「父さん、僕のは?」
朝、二人で本を手にこの場所に来た時、まず二つ話しを読んでくれるという約束だった。まだ一つの話ししか読んでもらっていないことからの、サルファーの言葉。
「もちろん忘れてないよ? サルファーもジストと選んでね。あ、アイスティー飲んでからだよ?」
二人仲良く返事をし、まるで競い合うようにアイスティーを一気に飲み干すと、またしても我先にと本に二人して手をのばす。
そんな様子を見守るコハクは、やはり笑みが絶えない。自分とヒスイの血をひき、ヒスイから生まれてきた二人。それぞれの色を受け継いでくれたことも合わされば、もう可愛いばかりだ。
「……スピネルはどっちの色かな。メノウ様の色を受け継いでいても可愛いだろうなぁ」
綺麗な亜麻色の髪。
「でも、あの色だったらロングヘアーにして女の子の方が……」
ヒスイにしたように、色々な髪型にして着飾って。
「サンゴ様のような波打つ髪っていうのも……」
コハクの妄想は絶えない。
しかもまだ生まれてもいない、というか、できるかさえ分からない子供のこと。“女の子”と限定し、それはどんどん膨らんでいく。
ヒスイに似ていて、ゆるく波打つロングヘアーの、ちょっと天然な娘っ! そして“お父さん子”にするっ! うんっ! いいかもっ!!
むふふ、と口元がほころんだ。
「決まったっ! 僕これっ!」
「オレはこれーっ!」
一人妄想にふけるコハクの前に、二人が得意顔でそれぞれ本を差し出した。
「? 父さんどうしたの?」
サルファーが鋭くコハクの表情を見抜く。コハクは慌てて平静を装った。
「ん、何でもないよ。じゃあ順番ねぇ」
「僕のからっ!」
真っ先に名乗り出たのはサルファー。そんなサルファーに、ジストは眉を吊り上げる。
「ダメっ! オレのからっ!」
ずいっと自分の本の方をよりコハクに近づけるように出すジストに、今度はサルファーがかちん。
「最初本を読んでもらう約束したのは僕だぞっ!」
「サルファーはもう一冊読んでもらったんだろっ! だったら次はオレっ!」
「二冊読んでもらう約束なのっ! その約束だってジストより先なんだから、僕のが先っ!」
「普通順番だろっ!」
「約束は守るためにあるんだよっ!」
肩をいからせ、鋭い視線で睨み合いながら、双方一歩もひく気配を見せない言い合いは何だか果てしなく続くようで。ちょっと見ていたい気もするが、このままだと確実に手が出そうな感じでもあるので、コハクは立ち上がると二人の間にわって入った。
「はーい、ケンカ終わりー」
その一言にぴたっと二人の声はなくなったが、翡翠色と菫色の大きな瞳が、納得いかないとの思いをにじませ、上目遣いで一気に注がれる。
「ねぇ、ジスト。確かに本を読むって約束をしたのはサルファーが先なんだ。だから、読む順番はサルファーが先だよね?」
「そうだけど……ずるいぃ」
もう一冊読んでもらっているという事実が、どうしても引っ掛かっているようだ。ジストは唇を尖らせる。
そんなジストに、サルファーがコハクにぴたっと張りつき、勝ち誇ったように舌を見せた。
「でも、サルファー。確かにもうサルファーには一冊読んであげたよね? だったら自らすすんでジストに順番を譲ってあげてもいいと、父さんは思うよ?」
「それはっ! ……そうだけど……」
その言葉に、同じようにコハクにぴたっと張りつき、今度はジストがふふん、と不敵に笑みを光らせた。
「さぁ、どうする?」
前後に張りつく二人の息子を並ばせて、視線を同じくするためにコハクはしゃがみこむ。
にっこりと優しい笑みを浮かべる父親を見て、二人はちらっちらっと互いを見やる。
「二人で話し合って」と、ジスト。
「順番決める」サルファーがしめくくる。
「うん、よくできました。じゃあ、決まったら読んであげるからね」
再び木の根元に腰をおろし、本を大事そうに抱え少し離れた位置に座る二人。あの二人がいったいどんな話し合いをして、どんな結論を持ってくるか。それはそれで楽しみでならない。
でも、それよりも。
「うーん、可愛いなぁ」
これが一番素直な感想だった。
出かけた時、いつも迎えにきてくれる場所に向かい、ヒスイは走っていた。たぶんお土産が入っているだろう紙袋を大切そうに抱え、先の角をまがった時に見えるであろうコハクの姿を思うと、自然と笑みが浮かぶ。足取りも軽くなるようだった。
そして角をまがると思った通りにコハクの姿が飛び込んでくる。同時に聞こえてくるのは、ジストの楽しげな笑い声。
すでに太陽は傾きかけているが、まだまだ強い光は二人の姿を浮かび上がらせていた。
「あれ? サルファーがいない?」
先にあるのは公園。見晴らしがいいので備え付けのベンチなども全てがよく見えるのだが、そのどこにも金髪を持つ子供の姿はなかった。
あの小憎らしいのがいないのはおおいに喜ぶべきところだが、そんなヒスイの脳裏に昼間メノウから言われた言葉がよみがえる。
──前にも言ったことあるけど、ヒスイは母親なんだから、きちんと息子のこと見てやらないとダメだよ。コハクを見習ってさ──
ふと、足が止まる。
“コハクを見習って”、その言葉の意図することに、ヒスイは何も言えなかった。
コハクの、三人の子供に注がれる愛情は別け隔てなく、どれも同じものだ。サルファーにも、スピネルにも……ジストにも。
もし、同じ立場に立ったら自分はコハクのようになれるだろうか。
思わずヒスイはうつむいた。
「あーっ! ヒスイおかえりーっ!!」
真っ先にヒスイを見つけたジストが叫び、満面の笑みを浮かべて走ってくる。その声に誘われて顔をあげれば、コハクの笑顔とも視線があった。
何一つ変わらないコハクの微笑み。
何故か、胸がしめつけられるようだった。
「ヒースーイーっ」
「……“母ちゃん”でしょっ!」
ぺちっとその額をはじきながら言うが、もちろん効果なし。
「ねぇヒスイー。じいちゃん元気だった?」
「か・あ・ちゃ・んっ!」
「これお土産っ!? 何買ってきたのっ!? ヒスイが選んだのっ!?」
ヒスイから紙袋を受け取り、中をのぞきながら言う。
「もうっ! ジストっ!」
「無駄だよママ。もうあきらめたら? ジストはかわんないよ」
言ったのはスピネル。そう、いくら言っても直らない。あきらめ時かもしれないが、やはり納得いかない。
「おかえり、ヒスイ。楽しかった?」
「え? あ、うんっ! お父さんも元気そうだったし、楽しかったよっ!」
「そう、なら良かった。じゃ、買い物行ってるサルファーを迎えにいこう」
そう言い手を差し伸べ、地べたに座り込んでしまっているジストにも行動を促そうとしたのだが、一向にヒスイの手が触れない。いつもならすぐに手を握ってくるのに、あれ? っと思い、再び視線を下げれば。
「ヒスイ? どうしたの?」
優しく話しかけてくれてるのに声が出ず、できたのはわずかにTシャツの裾を引っ張るように掴むことだけ。くわえ、上目遣い。
そんなことされれば、コハクとしてはたまんないわけで。でもちょっと様子がおかしい、物思いに耽っているらしいヒスイを。
「え? ちょっ! お、お兄ちゃんっ!」
有無を言わさず高い位置に、ちょうど腕に乗せるようなかたちで抱き上げた。コハクが見上げるようなかたちである。
「どうしたの? メノウ様に何か言われた?」
何と鋭いことか。
さらりと自分の髪の毛が肩からこぼれ、コハクの肩にかかる。それに促されるように見た、陽に透かすと深く濃くなる菫色の瞳には、絶対に隠し事なんてできやしないと改めて認識させられる。
「お兄ちゃんは……」
「うん?」
「お兄ちゃんは私に甘すぎだって……」
「ははっ! それはその通りだから何も言えないなぁ」
メノウ様だって甘いよね、と続け、綺麗すぎる銀色の髪の毛を軽く引っ張る。それがまるで合図かのように、どちらからともなく求め合い、唇をゆっくりとたっぷり重ね合わせた。
甘い、甘いひととき。
永遠に続いて欲しいと願うそれは、身体の芯をしびれさせる。
キスが終わると、ヒスイはそのままコハクの頭に抱きついた。
「お兄ちゃん、ごめんね?」
「え? 何で?」
「色々と……」
ますます声が震えてくるヒスイを、ため息をついてからおろし、そのままふにっと白い頬っぺたを両方から摘む。
「ひぁっ!?」
「ヒスイは何も悪いことしてないだろ? だから、謝る必要なし。ね?」
でも、中々表情は晴れない。
「それが甘いって言ってるのにぃ……」
「んー……じゃあ、厳しくする?」
「えっ!?」
それはそれで避けたい気が……。
コハクが本気で怒ると本当に怖い。
そんなヒスイにくすりと笑うと、コハクはとんでもないことを耳打ちしてきた。
「今日の夜、ベッドの上でね」
「っ!? お兄ちゃ……」
「えっ!? 今日はいつもより激しいのっ!?」
二人の間に割って入るように、でもしていた話しには何とも不釣り合いな幼く楽しげな声の主は、もちろんジスト。その瞳は期待に満ち、きらきら輝いている。
「ジストっ!」
真っ先に叫んだのはヒスイ。
「だよねぇ。もうちょっと激しく揉まないと、一向におっきくなんないもんねぇ」
「ちょっ! こらっ!」
しみじみ言いながらジストが揉むのはヒスイの胸。
「何であれだけ父ちゃんが揉んでんのに、おっきくなんないのかなぁ……」
二人のことはそっちのけ。ジストの表情はそりゃあ真剣そのもの。次第にヒスイはわなわなと震えだし、頭に血がのぼってくるのを感じた。
だが。
「ジースートーくんっ」
頭上から降り注ぐその声、いや、言い回しに当のジストのみならず、ヒスイまでびくりとする。
コハクが“くん付け”や“ちゃん付け”で呼ぶ時はロクなことがない、ということを二人はよく知っているからだ。
「えっとぉ……逃げるが勝ちっ!」
「はい、無駄ー」
素早くジストを抱き上げ腕の中に拘束してから、にーっこりと笑い。
「覗き見した“おしおき”ね」
「ま、待って父ちゃんっ! あは、あははははははっ!」
コハク特性、“くすぐりの刑”。
「ごめっ! あははははっ! と、父ちゃんっ! こうさーんっ! あははははははっ!」
ジストがコハクの力にかなうはずもなく、でもなんとかして逃れようと身をよじるが、笑うことで中々力が入らずどんな抵抗も堂堂巡り。
それを見てヒスイは思わずほっと息をつく。あれが自分でなくて良かった。
「おい」
突然の声にびくりとする。
この何とも小憎らしい声は、一人しかいない。
「ただでさえ鈍臭いんだから、そんなとこにつっ立ってられちゃ迷惑なんだよ。どけ」
金色の髪に翡翠色の瞳。にこりともしない、紛れもなくサルファー。
「ちょっとっ! おいって何よっ!」
「お前のことだよ、アホ」
「ア、アホっ!? サルファーっ!!」
と、ここでよみがえってくるメノウの言葉。
──きちんと息子のことよく見てやらないと……──
うん、そうよ。私の方が大人なんだから、冷静に冷静に。乗せられちゃダメ乗せられちゃダメ……。
呪文のように繰り返すヒスイ。
「あ、サルファーおかえり。色鉛筆あった?」
「ひ、も、堪忍して……父ちゃ、ん……」
今の今までくすぐられていたジストはもはや立つことさえできず、コハクの腕の中でだらんと目を回している。
「うん、あったよ」
とびきりの笑顔で、買ったばかりの色鉛筆を見せながらコハクに小走りにかけよる。その表情から、誰が見てもこのサルファーがどれだけコハクを尊敬し好きでいるかが分かるだろう。
それをじっと見つめているのはヒスイ。
お兄ちゃんがいて、私がいたからこそできた家族。それはかけがえのないものだ。
かわりなんてあるはずなく、サルファーがサルファーであり、ジストがジストであり、スピネルがスピネルであるからこその、今。
「じゃあ、今度こそ帰ろっか。サルファー、悪いけどあの紙袋持ってくれる?」
目を回したままのジストをおぶるので、手があかない。コハクの役にたつことなら願い出てもやりたいサルファーは、快く承諾し、嬉々として紙袋を持った。
「ヒスイ、行こう」
「……うんっ!」
何もかもを包み込んでくれるお兄ちゃんがいてこその、今のこの幸せ。そのお兄ちゃんが大切にしているものを、私だって大切にしなくちゃ。
「ねぇ父さん。でもこれ何?」
紙袋をちょっと持ち上げながら言う。
「ヒスイが買ってきたお土産だよ」
「あ、あのねっ!? サルファーにも買ってきたんだよっ!」
チャンスとばかりに、ヒスイがサルファーの顔を覗き込みながら言った。
「僕に? 何、天変地異でも狙ってんの?」
ぴきっと、ヒスイの額に青筋が走る。
「物騒な女だな」
相も変わらずの憎まれ口。普通なら咎めるべきだが、それより先にコハクの顔には笑いが浮かぶ。笑ってはいけないと思えば思う程唇が歪んでいき、そういうことばっかりがばれてしまうのは世の常で。
「もう、お兄ちゃんっ! 笑ってないで何とか言ってよっ!!」
「あぁ、うん、そうなんだけど……だ、だめかも……っ!」
とたん、コハクはおおいに噴き出した。
「お、お兄ちゃーーーんっ!!」
幸せに、幸せになろう。
みんな一緒に、ずーっとこの場所で。
陽の光にも負けないまばゆさを、決してなくさないように。
きらきら光る、“きらきらの世界”で。
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