9話 偶然の産物
「オニキス?」
(・・・これは・・・幻か・・・?)
そう思わずにはいられない巡り合わせだった。
バルコニーからヒスイが中へ入ってくる。
月の光が反射して輝く銀髪・・・オニキスは目を細めた。
「どうしたの?神妙な顔して。あ、いつもか」
出会い頭にヒスイが笑い飛ばす。
「ヒスイ・・・」
ヒスイがいる。それだけで驚くほど世界が変わる。
オニキスは飲みかけたグラスをテーブルの上に戻した。
「シトリンに渡したいものがあって・・・お兄ちゃんは本部に寄ってから来るって・・・オニキス?」
ヒスイから目が離せない。
だめだとわかっていても、抱き締めたい。キスをしたい。
愛おしさで胸が焼かれる。
それでも・・・忘れたい筈がない。
コンコン。
ノックの音でオニキスは我に返った。
「誰か来た。お前は隠れていろ」
「うん。あ・・・」
身を隠そうとしたヒスイの目にワイングラスが映る。
(お水・・・飲みたい)
普通に喉が乾いていた。
ワイングラスに注がれた無色透明の液体はとても美味しそうに見えた。
(隠れる前に一口・・・)
グラスを手に取り迷うことなくゴクリ。
ガシャーン!!
ヒスイが空のグラスを床に落とした。
大臣と話していたオニキスが振り返る。
「ヒスイ!!?」
(まさかあれを飲んだのか!!?)
「あ・・・たま・・・いた・・・」
ヒスイは頭を抱えてうずくまり、そのまま気を失って倒れた。
「王妃!?」
ヒスイの姿を目撃した大臣が大声をあげる。
「神隠しに遭っていた王妃が・・・帰ってきたぞ!!」
それがきっかけで城全体が大騒ぎになった。
オニキスはそんなことに構ってなどいられない。
「ヒスイ!!!」
(オレが弱い心を持ったばかりに愛する女の記憶を奪ってしまった)
この時ほど自分の弱さを呪ったことはなかった。
顔面蒼白・・・オニキスはヒスイを抱き、その体に深く顔を埋めた。
「・・・あなたじゃなかったら殺してるところだ」
遅れて到着したコハクに説明し、謝罪する。
一瞬だった。
コハクは月光を凝縮させて創りだした魔法剣をオニキスの首に当てた。
冷たい輝きを放つ刃がオニキスの皮膚を裂く・・・
「それでお前の気が済むのなら・・・切り落とせ」
オニキスは静かに瞳を閉じた。
「切り落としたところであなたは死なない」
「・・・・・・」
「あいつ!!!何を!!」
「やめろ!シトリン!」
騒ぎで宮殿に次々と人が集まる。
その中にシトリンとジンもいた。
「離せっ!!オニキス殿に剣を向けるなど許さんっ!!」
取り乱したシトリンをジンが押さえる。
コハクは剣を引き羽根を広げた。
「・・・しばらくあなたに預けます。ただ、これだけは覚えておいてください。ヒスイは、僕にしか咲かせられない花だ。それを思い知るといい」
「熾天使セラフィム・・・愚かな人間を裁くために神が創りだした殺戮天使・・・神の喪失後、天界を滅ぼし、すべての天使を地に堕とした大罪人がこれしきで動揺するとは・・・脆いな。あの男にはしばらく大人しくしていてもらおう・・・」
暗闇に浮かぶ紅い瞳・・・
<・・・いけ。今なら簡単に喰えるぞ・・・>
「“ヒスイは僕にしか咲かせられない花だ”なんてよく言ったもんだよなぁ・・・」
オニキスを牽制するためのハッタリだ。
コハクは一人屋敷に戻った。
あまりの動揺に家の方角さえ見失い、どうやって戻ってきたか自分でもわからない。
すっかり夜が明けていた。
(ヒスイが・・・僕を忘れた?嘘だろ・・・40年だぞ・・・。僕はヒスイの、ヒスイは僕の、思い出いっぱいの40年・・・)
ベッドに倒れ込む。
(何千年と生きた中で一番大切な時間だったのに・・・だめだ・・・立ち直れない・・・)
幸せな思い出が多すぎて・・・失った痛みに耐えられない。
コハクは唇を噛んだ。
(どうする・・・これから)
自問自答・・・しかし問いかけるだけで答えは見つからない。
(・・・こんな絶望的な気持ちになったの初めてかも・・・)
ベッドにはまだヒスイの匂いが残っている。
この上で数え切れないくらい愛し合った。
(ベッドが壊れるまでえっちしたのに・・・全部忘れちゃったんだなぁ・・・なんか考えれば考えるほど落ち込む・・・)
「変な見栄張らないで、無理矢理でも連れ帰ってくればよかった・・・」
(これはちょっと・・・自分的にまずい・・・)
激しい落ち込みぶりに自分自身が驚く。
「僕を知らないヒスイ・・・か。それは・・・僕の知らないヒスイだ」
「う〜ん・・・」
頭を振ってヒスイが起き上がる。
ヒスイは三日三晩、頭痛にうなされ寝込んでいた。
王妃復帰の噂はたちまち国中に広まり、国民は歓喜した。
「オニキス〜?」
オニキスは近くのソファーで仮眠をとっていた。
「!!ヒスイ!気が付いたか・・・」
「?気が付くも何も寝てただけよ?でもちょっと寝過ぎで頭が重いかも・・・」
目覚めてから一言もコハクの名を口にしない。
ここにいるのが当たり前のように大きく伸びをしてオニキスに微笑みかける・・・
「・・・あれ?何でオニキスそんなところで寝てるの?ベッドはこっち!」と、言って自分が寝ていた場所を指す。
(・・・きれいさっぱり忘れてしまったのか・・・)
ヒスイの言動を見ていると、もうそうとしか思えない。
「ヒスイ。シトリンとトパーズのことは・・・」
「なぁに?朝から。大丈夫よ、まだそこまでボケてないわ。子供でしょ?私達の」
ヒスイは不思議そうな顔で答えた。
(なんて酷いことを・・・オレは・・・ヒスイに・・・)
詫びる言葉が見つからない。
「オニキス?どうしたの?泣きそうなカオ・・・してるよ?」
ヒスイが背伸びをしてオニキスの頬を撫でる。
「背が高いからこうしないと届かないのよね・・・で、たまに足がつっちゃうの」
屈託のない笑顔。
オニキスは頬に触れるヒスイの手を握った。
「・・・すまない・・・」
瞳を伏せ、小さくそう呟く・・・
「え?何か言った?」
「・・・何度でも言う・・・すまない・・・ヒスイ・・・」
それ以上言葉にならなかった。
「オニキス?そんなに強く握ったら痛いよ。どうしたの一体?」
「・・・オレの傍に・・・いてくれ」
(自分で忘れさせておいて・・・オレは何て都合のいいことを・・・)
どんなに自分を蔑んでも、抑えていた想いが止まらない。
自分のものにしようと思っている訳ではなかった。
ただ・・・一番近くで笑顔を見たいだけ。
(どんな裁きでも受ける。だから・・・その時まで・・・)
「・・・お前を・・・愛している・・・」
「ぷぷっ!何、突然」
ヒスイが口を押さえて笑う。
「そんなの決まってるじゃない。私もよ?」
「だから・・・頭の検査って・・・何なのよ・・・」
誤って薬を飲んでからヒスイは度々激しい頭痛を訴えたが、痛みは短時間で治まり、医学的にも問題はなかった。
(記憶が抜けて辻褄が合わなくなったことを考えようとすると頭痛が起こるようだ・・・)
難しい顔をしているオニキスに気にしすぎだとヒスイが文句を言う。
「計算・言語・記憶力・・・問題ない」
オニキスはヒスイに大学のテスト問題を解かせた。
「・・・全問正解だ」
「当然よ。だって私、勉強好きだもん」
ヒスイが胸を張る。
「知識を得ることは素晴らしいわ。できなかったことができるようになって、一つずつ解ける問題が増えていくのが楽しい。それはいくつになっても変わらないわね。まだまだ学びたいことが沢山あるわ」
「・・・そうだな」
オニキスは微笑んでヒスイの頭を撫でた。
「ご褒美、ちょうだい」
上目使いにオニキスを見てヒスイがねだる。
「・・・何が欲しい?」
キ ス 。
声には出さず、口だけを動かす。
その仕草が可愛い。
「・・・ご褒美、だ」
オニキスはヒスイの額にキスをした。
ヒスイは「唇が良かったのに」と、少しがっかりした顔をしたが「まぁ、いっか」と額を押さえて笑った。
(愛しい・・・いけない。この笑顔は・・・オレのものではないはずだ)
「・・・オニキス殿・・・母上にべったりだな・・・」
燃え尽きた様子のシトリン。
「ヒスイさんまだ本調子じゃないから、心配なんじゃないかな。誤飲してから頭痛が酷いっていうし・・・」
ジンが懸命にフォローする。
「頭痛・・・か。母上の心が悲鳴をあげているのではないだろうか・・・可哀想だな・・・母上・・・」
再びオニキスに視線を戻す。
ヒスイと熱心に会話をしている。
専門用語が飛び交い、二人が何を話しているのかシトリンにはさっぱりわからない。
「・・・可哀想・・・でもないのか・・・」
(二人ともすごく楽しそうだ・・・)
「オニキス殿にとっては、私とのキスなんて取るに足らないものなのだろうな・・・」
ジンがいることも忘れ、思わずそう口にする。
「・・・・・・え?」
ジンが聞き返した。
「王と・・・キス・・・したの?」
「・・・私が勝手にしただけだ」
「・・・・・・」
「ジン?どうした?」
「あ、いや・・・何でもない」
(・・・何だ・・・今のムカムカ・・・)
これまで意識したことがない感情だった。
(これって・・・嫉妬・・・なのか・・・)
シトリンの唇にばかり目がいく。
(なんか・・・おかしいぞ・・・オレ)
「魔法薬によって失われた記憶を戻す方法はないのか?」
シトリンの唇が動く。
「・・・・・・」
「おい、ジン!聞いているのか!?」
「あ、うん。その手の研究はもともとあまりされていなくて・・・王自ら研究を始めて、オレ達も手伝ってはいるんだけど・・・まだ成果が・・・ごめん」
「あの男は何をしているんだ!早く迎えに来てやればよいものを・・・」