17話 甘い痛み
モルダバイト城。トパーズのいない研究室。
「何でオレがあいつの影武者のような真似を・・・」
山になった書類と向き合っているのはジンだった。
“しばらく留守にする。教育機関はお前が管理しろ”
トパーズが姿を消した翌日に下った命令。
黒鴉が運んできたメッセージ。
“いずれはお前の仕事になる。せいぜい頑張れ”
「オレの知らない所で話がどんどん進んでいるような・・・」
(ホントにあいつ・・・どうするつもりなんだ?)
室内を見渡す。
(元々、几帳面な奴だけど・・・)
妙に整理されているのが気にかかる。
「・・・戻ってくるよな・・・」
ふと湧き上がる不安。
(半端な事をする奴じゃない。あいつは・・・国を継がない・・・継げないと言った。その理由は何だ?)
「あ〜・・・もう・・・わかんない奴だなぁ・・・」
両手で頭を抱える。
しかし手を止めている暇はない。
「一人で全教育機関を総括・・・あり得ないだろ〜・・・」
徹夜で仕事をしても書類の量は一向に減らなかった。
「バイト雇おうかな・・・はぁ〜っ・・・」
(トパーズもコハクさんも・・・あの一家は人使いが荒い!シトリンだって・・・)
「・・・シトリン・・・どうしてるかな・・・」
胸の痛みと共にシトリンを思い出す。
ぼんやりとしたまま目を通した書類・・・驚きで一気に目が覚めた。
(!!?退学届け!?シトリンのだ!)
「あ〜もう・・・こっちはこっちで何考えてるんだよ・・・」
「すまん。出直す」
シトリンの自室を訊ねたオニキス。
「いや、構わん」
迎えたシトリンは入浴直後で、薄いシャツ一枚身に纏っただけの姿だった。
薬の効果が切れ、髪が金髪に戻っている。
瞳も淡い菫色だった。
「用件はわかっている。入ってくれ」
「・・・・・・」
父親としての気遣いからか、オニキスがシトリンの部屋に入ることはあまりなかった。
いつもならドキドキが止まらないシチュエーション。
しかし、シトリンに笑顔はない。
「・・・これを」
オニキスは部屋に入るなり、退学届けを突きつけた。
シトリンのものだ。
「お前が他の生き方をしたいと言うのなら止める気はないが・・・」
「ああ。止めないでくれ。私は城を出る」
シトリンは自棄になって言った。
(片想いでも・・・ずっと傍にいようと思っていた。だが、母上しか見ていないオニキス殿の傍にいるのはやはり辛い・・・)
「私が傍にいたところでオニキス殿を幸せにはできないからな!」
「それは違う」
「違わない!」
感情が先走って本当の気持ちを上手く伝えられない。
言いたい事は他にあるのに、肝心なところが声にならなかった。
(傍にいれば、オニキス殿の優しさに甘えてしまう。痛いのに甘い。甘いのに痛い。慣れたくないんだ。この甘い痛みに。だから離れる)
「騎士団はしばらくジンに任せることにした。これから話をつけてくる」
温室でのことは軽く水に流してジンの名をあげる。
トパーズの出奔を知らないシトリン。
ジンが必死に代役をこなしていることなど当然考えに含まれない。
「・・・餞別にキスしてくれ」
挑発的な微笑みでシトリンがキスをねだった。
相手にされないのはわかっている。
最後にオニキスを困らせてやろうというささやかな意地悪だった。
「母上以外の女とするのは嫌か?」
胸元のボタンを一つ外してオニキスを更に煽る。
ヒスイより胸も色気もある。
美しさでも負けてはいない。
「・・・いいだろう」
「え?」
突然オニキスがシトリンの顎を掴んだ。
「!!!」
迷いのない唇が触れる。熱く・・・長いキス。
「・・・これで満足か?」
ゆっくりと唇が離れる・・・
間近で見たオニキスの表情はいつもと全く変わらなかった。
「よく考えろ」
甘くないキス。
(こんなキスが欲しかったんじゃない・・・)
シトリンは自分の言葉と行動を心底後悔した。
オニキスが部屋を出ていった後、力なく床に座り込む。
(母上に触れるときと・・・全然違う・・・)
涙が止まらない。
「・・・敵わないなぁ・・・母上には」
素直にそう認めてしまうと笑いが込み上げてくる。
シトリンは泣きながら笑い、笑いながら泣いた。
「あなたはシトリンを泣かせてばかりだ!」
部屋の前でオニキスに立ち塞がる男。ジン。
シトリンの涙の気配を察し、足を向けると部屋の扉は少し開いていた。
そこから垣間見たキスシーン。
「今のは・・・気持ちが全くこもっていない!」
(だからシトリンが泣いてるんだ!)
ジンは自分でも信じられないくらいの勢いでオニキスに食ってかかった。
「・・・そう思うのならば、お前が教えてやれ。本当のキスを」
「・・・え?」
「・・・シトリンを頼む」
宮殿2階。
「ヒスイ、待ったか?」
「ふあぁ〜っ・・・別にいいよ。寝てたし」
ヒスイはソファーで横になっていた。
欠伸をしながら起きあがり、柱時計で時間を確認。
午後2時。門限までにはまだ時間がある。
が、3時のおやつまでには帰りたい。
今日のおやつは大好物のババロアだ。
今から楽しみで仕方がなかった。
「コレ言いにきただけだから。すぐ帰る」
ヒスイは寝起きとは思えないほど清々しい笑顔で言った。
「誕生日、おめでと」
「ヒスイ・・・」
二人が初めて出会ったのもこの日だった。
それ以来、誕生日には必ずヒスイが祝いにくる。
もう何十年と続いている恒例行事だった。
「何で誕生日秘密にしてるの?みんなでお祝いすればいいのに」
「歳がバレる」
「あ、そっか」
ヒスイが覚えていればそれでいい。
こうしてヒスイに祝ってもらうだけで充分満足だった。
「今年はどうする?いつものでいい?」
「ああ」
オニキスがヒスイの前で膝を折る。
するとヒスイが鼻の頭にキスをした。
Happy Birthday to you〜
それから口ずさむ祝いの歌。
変わらない贈り物。
それが・・・一番嬉しい。
「・・・抱き締めても?」
「うん、まぁ、いいんじゃない?誕生日だし」
「・・・ヒスイ」
そっとヒスイの体に腕を回す。
今だけ感じることの許された温もりにすべてを捧げて、オニキスはゆっくりと瞳を閉じた。
(甘い痛みにいつの間にか慣れてしまった。オレにはもう逃れる術がない。このまま・・・抗うことも忘れて生きてゆくことだろう)
「・・・お前はこうなるべきじゃない。シトリン・・・」
シトリンの自室。
「・・・来たか」
「うん。来た」
シトリンの涙に敏感なジンが傍に寄った。
「この間は・・・ごめんな」
「・・・もういい。そのことは」
長い睫毛をしっとりと涙で濡らしてシトリンが微笑む。
いつものように慰めるだけじゃない。
あの夜、間違ってしまった順番を正すためにここいる。
ジンは告白を決意して口を開いた。
「・・・オレ・・・シトリンが好きだ。友達としてじゃなくて、男として。だから・・・あの時キスを」
「そう・・・なのか?」
相変わらずシトリンの反応は鈍い。
「これでも自分から告白するのは初めてで・・・その、気の利いたこと言えなくて悪いけど・・・とにかく、目茶苦茶、好き」
そこまで言って、照れまくるジン。
「地味な告白でごめん。色んな言葉を用意してきた筈なのに、いざとなったらありがちな言葉しか出なかった」
「・・・ぷっ」
シトリンが吹き出した。
「告白とは案外そうなのかもしれんな」
「そうだな」
和やかなムード・・・
「お前の気持ちはわかった。が、すまん」
そして案の定フラれる。
「私は今、自分の気持ちがよくわからない。オニキス殿から離れて、少し頭を冷やす」
「うん。それでいいと思う」
「・・・余裕だな、お前」
「そういう訳じゃないけど・・・とりあえず、白髪が生えるまでにいい返事が貰えればな、っと」
「気の長い話だ」
「うん。長い。でも・・・待てると思う」
「馬鹿。寿命で昇天しても知らんぞ」
「その時は墓標にでも刻んでくれ。まぁ、頑張って長生きするよ」
肩を竦めるジンを見て、シトリンが笑う。
笑うシトリンを見て、ジンも笑う。
二人の笑い声が部屋に明るく響いた。
オレのキスはきっと甘い。
それだけは自信を持って言える。
愛する喜びを知ったから。
愛される喜びを教えてあげたい。
痛みのない愛を。
そして・・・いつかきっとその甘さの虜になる。二人で。